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基礎理論 修正版

不人気はなはだしいですけど地道に書き続けます。
これがライフワークといっても過言ではないので。

で、これは4回に分けて記事にした「GIOの基礎理論」の修正版です。
4回分がすべて入っていて、あとは基礎理論を読み直してみて直すべきと思ったところは修正しました。
大幅に修正したところもあるので、興味があれば読んでください。

では【続き】で。



基礎理論

理論体系の基礎となる部分を書く。
数学でいえば加算の部分に当るが、日常的な感覚からはほど遠いものになっているために理解しづらいと思われる。
初回で理解せずとも目を通しておいて、一通り読んだ後に読み直すのが効果的かもしれない。


もくじ
1. はじめの問い
2. 認識による自分
3. 自分と思考と論理性
4. 領域により規定される存在


1. はじめの問い
有名な話ではあるが、こういうものがある。
一度すべてのものを疑い、絶対に正しいもの(絶対的真理)を探そうという話だ。
これはデカルトという人が提唱したもので、方法的懐疑と呼ばれている。
デカルト自身はこれについて、『方法叙説』のはじめで「成人を迎える頃には、幼少より教えられてきて何も考えずに受け入れてきた諸々を捨て去らなければならないと感じた」というようなことを言ったらしい。

私も2つの理由から同じように思う。
1つめは、その試みは正しい方向へ向かっていると考えられるからだ。疑うことのできるものばかりで何も絶対的なものがないままではどのような議論・思考も意味のないものになってしまう。
2つめは、個人的な理由で恐縮だが、そうでないと私が考えたこと、書こうとしているものの根拠がどこにもないことになるからだ。つまり、私が考えた結果として、方法的懐疑が必要だという結論に至ったということだ。
以上の理由より、まずは方法的懐疑から始めることにする。

では話を始めよう。

すべてのものを疑うとはどういう事かというと、これはそのままの意味でしかない。
例えば「今朝食べたものには本当に遺伝子組み換え食品が入っていなかったのか」や、「そもそも朝食は食べたのか」、「朝食は誰が作ったのか」、「その人は本当に存在するのだろうか」など、考えつく限りのすべてだ。
それらの問いの中で、少しでも疑いようのあるものは絶対的真理でないとされ、排除されていく。

これをより根本的な方向へと突き詰めていくと、結局はある問いに収束することになる。
つまり「自分は存在しているのか」という問いだ。

これに答えなければ、他のなにものについても、また、他のなにものの存在についても語ることはできない。
なぜなら、すべてのものは自分がそう認識しているからこそ存在しているように感じているからだ。
そもそもの自分が存在しないのならば、その認識もまた存在しないのであり、他のすべては存在するかしないか不明、ということになる。

この問いに対する答えは、方法的懐疑を提唱したデカルト自身が出している。
曰く"cogito, ergo sum"、「我思う、ゆえに我在り」だ。
これは「今自分は自分が存在しているのかどうか考えている、ということは(自分の身体やら他のものやらは知らないが)少なくとも今考えている自分だけは存在している」という意味だ。

しかし、これ(以後コギトと呼ぶ)は論理的に間違っている。
コギトの「我思う」という部分には、前提として「自分が存在している」というものが含まれているからだ。
方法的懐疑による思索がコギトに至った後でも同じように「そもそもの自分が存在しないのならば、その「思う」もまた存在しない」と反論することができる。
構造から見れば、前提として仮定したものを結論で繰り返しただけであり、これでは問いの答えとして認められない。

このことから1.では、「自分は存在しているともいないとも論理的には言い切れない」と結論する。


2. 認識による自分
1.では、自分は存在しているかどうか分からない、ということを書いた。
また、その結論が出る前の時点で、他のものすべてについてもすでに同じ結論に達している。
つまり、自分以外のすべての存在を排除したあと、ついには自分の存在も排除したということになる。
これらはすべて論理的に導き出した結論であり、そのことについておよそ誤っているところはないように思う。

しかし、いくら論理的に存在すると言えないものであろうと、少なくとも自分自身にとって自分は存在している。
なぜならば、「「自分は存在しているのか」を考えている自分が存在している」という認識が自分にあるからだ。
それゆえに、この認識が論理的にどのような評価を受けようとも、また、もし自分が存在しないのだとしても、自分としてはそれを肯定せざるをえない。
認識は自分のすべてに先立つのだ。

これをデカルトの言に則って書くならばこうなる。
「我思うと我思う、ゆえに我在りと我思う」。
つまり、「考えている自分が存在していると認識している、ゆえに自分は存在していると考える」ということだ。

余談だが、この言葉により正確を来すなら「人思うと我感ず、ゆえに人在りと人思う」となるのだが、それについては別の機会に書くことにする。
「自分」と「人間」は別のものであるという内容になるだろうが、ここではそれは考慮しない。

以上の内容をまとめる。
論理的には「存在するともしないとも確かなことは言えない」自分だが、「自分は存在するという認識」をもつ自分にとっては「自分は存在する」としか考えられないので、そうと決めつけることにする。
「我思うと我思う、ゆえに我在りと我思う」のだ。

よって2.では、認識は自分のすべてに先立ち、「自分は存在する」という認識があるゆえにそうであると結論する。


3. 自分と思考と論理性
現状を確認する。
1.では絶対的真理を求めた結果、論理的に「自分が存在しているともいないとも言い切れない」という結論に至った。
しかし自分には「自分は存在する」という認識があり、自分としてはそれを受け入れざるを得ないので、2.において「自分は存在する」と決めつけた。

そこでまず、自分はどのようにして存在しているのかを考える。

実は、それについてはこれまでの中で答えがほとんど出ている。
例えば「我思うと我思う、ゆえに我在りと我思う」だ。
読んでみると「我」と「思う」の二つの単語が多いことに気付く。
「我」は自分のことなので無視するが、そうするとこのことは、「思うこと」「考えること」が自分の存在だと示している。
自分は「思考」として存在しているのだ。

では次に、思考について、その性質を考える。

まず結論を示す。
思考は常に「領域を基にして」「論理的」である。
この2つの性質が思考のすべてである。

例として、簡単な問題を考える。
以下のケース、

=======================================================
|| C = 1 ;
|| C = 2 ;
=======================================================

は正しいかどうか、という問題だ。
これについて2つの思考を当てはめ、思考の性質を導き出す。

1つめの思考は「正しくない」というものだ。
数学的に考えて、「C = 1」ならば「C = 2」はありえないからだ(セミコロンは意味が不明なので無視した)。

2つめの思考は「正しい」というものだ。
プログラミング言語的に考えて、「Cに1を代入した後に2を代入する」という文になっているからだ。

これら2つのの思考がごく論理的であることは間違いない。
ではなぜ答えが異なるのだろう。
論理的というならば、同じ結論に至ってしかるべきではないだろうか。

それについては、思考は領域を基にするという性質が関係している。
問題で与えられたケースは、単に2行の文であり、それはなにものであるとも定まっていない。
しかし2つの思考はそれぞれ、「ケースを含む数学的な領域」と「ケースを含むプログラミング言語的な領域」というものを仮定し、基にしている。
基にしている領域が異なっているので、論理的であるという性質はそのままに、答えが異なるのである。

思考は領域を基にして論理的であるとは以上の例のようなことを指している。
これはどのような思考についても変わらない。

たとえば、一見論理的でないように思える思考でもそれは変わらない。
なぜなら、そうでなければそもそも思考として成り立つことができないからだ。
いくら非論理的な思考を追求しても、思考の性質をはずれた思考は実現できない。
思考の結果はすべて、基にする領域から論理的に決定されるのだ。

以上より3.では、自分は思考として存在し、思考は領域を基にして論理的であると結論する。


4. 領域により規定される存在
自分は思考として存在し、思考は領域を基にして論理的である。
これは3.で導き出した結論だ。

思考について、論理的であるという性質は不変なのだから、それぞれの思考で変化するのは常に基にする領域ということになる。
このことを、自分は思考として存在するということとあわせて考えると、以下の結論が得られる。

つまり、自分とは認識している領域により規定される存在である、ということだ。
順序を正して言い換えるならば、認識している領域から論理的に組み立てられる思考として存在しているものが自分である、となる。

基礎理論をまとめる。
・自分は存在しているともいないとも論理的には言い切れない
・認識は自分のすべてに先立つ
・自分は存在しているという認識よりそう決めつける
・自分は思考として存在している
・思考は領域を基にして論理的である
・自分は認識している領域により規定される
これが基礎の理論となる。
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